ニコライ・カルロヴィチ・メトネル
Nikolai Karlovich Medtner

 ニコライ・カルロヴィチ・メトネルは、1880年1月5日に(当時のロシアの暦では1879年12月24日にあたる)、 モスクワで生まれた。 12歳でモスクワ音楽院に入学する。ピアノを専攻し、スクリャービンやレヴィーンの師であるヴァシーリー・サフォ ーノフに師事。1900年にピアノ科の首席卒業者として金メダルを受賞。ピアニストとして将来を期待されるが、 まもなく独学で作曲家への道を模索するようになる。この頃、大ピアニストのホフマンからラフマニノフを紹介され、生涯を通じた交遊が始まる。

 最初の大作となるヘ短調のピアノソナタ作品5に対して、対位法の教師タネーエフから「(メトネルは)生まれつきソナタ形式を身につけている」という有名な賛辞を得た。その後、母校のピアノ科教授に就任し、教育活動と自作を中心とした演奏活動を続ける。 1919年6月21日、様々な障害を乗り越えて長兄エミーリの妻だったアンナと結婚。初めて出会った日 から23年の月日が流れていた。

 メトネルの創作活動で一際目を引くのは、生涯にわたって書き続けられた「おとぎ話」というジャンルの作品群である。 表題を持つ作品や、題辞として詩などを置く作品が多いが、それらを描写した音楽というよりも それらからインスピレーションを受けて構築された音楽と呼んだ方が相応しい。 ロシア文学だけ でなくゲーテなどのドイツ文学にも造詣が深く、ドイツ語の歌曲も多数作曲している。 他にはピアノ独奏曲、ピアノを含んだ室内楽作品、 3曲のピアノ協奏曲などピアノを中心に作品を残した(作品目録を参照)。

 社会主義革命後の混乱を避けてロシアを出国する(1921年)。亡命ではなく、ラフマニノフと同じように家族と自分の安全を 求めて混乱した祖国を一時的に離れたものであったが、次第にボリシェヴィキ政権が硬直化するにつれてロシアへの帰還は 非現実的になり、後半生は生活の基盤を西欧に置くようになる。 1927年、ロシアに一時帰国し、ピアノ協奏曲第2番ハ短調の初演を行い、各地でリサイタルを開く。 これがロシアとの別れになった。 1935年には自身の音楽論をまとめた 「ミューズと流行」をラフマニノフの協力で出版。

 王立音楽アカデミーの名誉会員に選ばれるなど、高く評価されていた英国に移り住む。第二次世界大戦 が始まると、(イギリスから見た)敵国ドイツの出版社から印税収入が入らなくなり、生活に困窮するようになる。 メトネルの音楽を愛好して いた南インド・マイソールのマハラジャの援助により、メトネル協会がロンドンに設立され(1947年)、その基金に 基づき、HMV(後のEMI)に自作自演の録音が残された。

 晩年は心臓を病み、闘病生活を余儀なくされる。1951年11月13日永眠。今もロンドン郊外のヘンドン墓地に眠る。

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